新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

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file-78 にいがたの城下町(後編)

  

新発田に今も残る城下町の風情

城下町新発田の茶道と和菓子文化

新発田市菓「あやめ城三階櫓」

新発田市菓「あやめ城三階櫓」
ごまあんを包んだしっとりとした生地には、三階櫓の姿が浮かび上がっています。  

市菓第2弾「あやめ城辰巳櫓」

市菓第2弾「あやめ城辰巳櫓」
新発田の特産品アスパラガスのピューレを黄身あんに練りこんでいます。  

 新発田は江戸時代を通じて溝口氏の城下町で、比較的豊かでした。3代宣直(のぶなお)侯は1658(万治元)年に曹洞宗高徳寺を五十公野の上新保に移し、その跡地を藩の御用地として下屋敷清水谷御殿を建立。その後4代重雄(しげかつ)侯の時に幕府茶道方であり庭方でもあった縣宗知(あがたそうち)を新発田に度々招き、作庭の指導を受け、元禄年間(1688-1704)に清水谷・五十公野・法華寺などの庭園が完成しています。五十公野御茶屋は新発田藩主の別邸で、参勤交代にはここで旅装を改めたほか、茶寮として重臣にも開放し遊楽の場となっていました。
 このように茶の湯を藩内に広く推した歴代藩主の溝口家が興隆に力を注いだといわれるのが石州流越後怡溪派(せきしゅうりゅうえちごいけいは)です。その源流は、徳川300年の茶道指南役と呼ばれ、のちに「石州ならざれば茶にあらず」と称された石州流。4代重雄侯が参勤交代で江戸に滞在している間直々に茶の湯を習ったのが、石州流怡溪派の派祖、怡溪宗悦(いけいそうえつ)だったのです。重雄侯は藩内に怡溪派を導入する一方、5代目重元(しげもと)に直伝の茶の湯を伝え、溝口家と石州流の長い歴史が始まりました。
 中でも江戸末期の藩主10代直諒(なおあき)侯は、江戸常駐の怡溪派茶道職・阿部休巴(あべきゅうは)に茶の湯を習った際に、その奧伝まで賜ったとのことで、改めて「越後怡溪派」を名乗り、藩士にまで茶道を奨励するなど歴代最も茶の湯に傾倒した藩主として知られています。この時誕生した石州流越後怡溪派は各地に広がり、現在も新発田藩とゆかりのある清水園や五十公野御茶屋などで毎年茶会が開催されるなど、新発田を茶の湯が盛んな町として支える文化の一つになっています。
 茶道とともに発展したのが和菓子。京都から技術を取り入れながら、質の良い菓子が作られるようになったと言われています。上質な米や豆類など、菓子作りに必要な材料には事欠かなかったこともあり、新発田の和菓子の伝統は発展していきました。
 現在でも新発田市には人口に対してたくさんの和菓子店があります。平成16年、三階櫓・辰巳櫓の復元を記念して、新発田菓子業組合が中心となり、市菓「あやめ城三階櫓」が作られました。また、平成22年には官民協働で開発した市菓第2弾「あやめ城辰巳櫓」を発売しています。パッケージデザインなどは市民が手掛けていて、新発田城の復元同様市民の力がここでも形となっています。「あやめ城三階櫓」「あやめ城辰巳櫓」は、新発田市内の和菓子店で販売されています。   

未来を担う若い力へ

 

 店主の高齢化が進んでいる老舗和菓子店も、次の世代となる若い力がどんどん育っています。それは新発田城を守ることも同じ。「愛す会のメンバーは現在56名。若いメンバーが加わったり、どんどん力が増していますよ。あと、お城の掃除をしてくれる子どもたちには本当に感謝しています。こういったことから、新発田城を愛する気持ちが代々伝わればいいと思っています。」と、「新発田城を愛す会」の代表、諸橋晃さんは未来に想いを寄せます。
 市民によって復元された新発田城、そして市菓の誕生…これからも新発田城は、市民の愛によって守られていきます。  


<参考ホームページ>
▷ ・132年の時空を超えて 新発田城
▷ ・新発田市観光協会 しばた観光ガイド
▷ ・新発田の特産加工品 新発田市ホームページ

 

■取材協力
諸橋晃さん(「新発田城を愛す会」会長)

■資料提供
新発田市教育委員会生涯学習課文化行政室
新発田市役所

■参考資料
「石州流怡溪派歴史」(茶道怡溪会編)
「石州流:歴史と系譜」(光村推古書院)野村瑞典著

 

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