現在、開催されている大阪・関西万博。同じ大阪で昭和45年(1970)に開催された万博のシンボル『太陽の塔』を制作したのが、岡本太郎です。絵画作品を中心に彫刻や文筆、写真、インダストリアルデザイン(※1)などその活躍は多方面にわたり、日本を代表する芸術家として知られています。その岡本太郎は縄文土器に初めて「美」を見出し、アートとしての縄文土器の魅力を広く発信し、縄文ブームを生み出した人でもあります。
その岡本太郎と新潟の関わりを探ります。

※1:工業製品のデザイン。大量生産を前提に、製品の外観の美や使いやすさ、安全性、生産効率などを考慮して設計します。

岡本太郎〈おかもとたろう・明治44年(1911)~平成8年(1996)〉神奈川県川崎市生まれ。父は漫画家・岡本一平、母は作家・岡本かの子。18歳の時に父母と渡仏し、シュルレアリスム(※2)や抽象芸術(※3)の影響を受け、パリ大学では民族学や哲学を学び、昭和15年(1940)帰国。日本の前衛芸術(※4)を牽引しました。写真提供:岡本太郎記念館

※2:第一次世界大戦後からフランスの詩人アンドレ・ブルトンを中心として起こった芸術運動で、日本語では「超現実主義」と訳されます。夢や無意識など人の意識では管理できない領域を表現しようとしました。
※3:目に見える対象をそのまま表現しない芸術。色や形、独特の記号の効果を用いて、アーティストが伝えたいメッセージ、感情、独自の現実のとらえ方を表現しています。
※4:既存の芸術概念や形式を否定し、実験的、革新的な表現をする芸術運動。前例のない自由さと創造性のある表現技法で、社会的、哲学的、政治的なメッセージを込めた芸術としての役割も果たしています。

縄文土器に芸術としての美を初めて発見

 昭和26年(1951)11月、岡本太郎は東京国立博物館で縄文土器と出会い、考古資料としてしか扱われていなかった縄文土器の中に「美」を発見します。翌年、その時の衝撃を、「縄文土器論―四次元との対話」として美術雑誌『みづゑ』2月号に発表しています。

 「縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。
 激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」(『みづゑ』「縄文土器論―四次元との対話」昭和27年(1952))

 岡本太郎が発見したのは、縄文土器の造形の美しさだけではなく、土器に秘められていた、その時代の人々の精神世界や生き抜くための根源的なものによる「四次元的な美」だったといいます。

 「太郎が一番伝えたかったのは、縄文土器をただ“すごい”と見るのではなく、純粋に縄文土器としっかり向き合い、我が事のように感じ、それを乗り越えて次の世代の自分たちの作品を作っていく、新たな芸術の指針として参考にしなければならないということだったと思います。」と言うのは川崎市岡本太郎美術館の学芸員・佐藤玲子さん。平成22年(2010)ごろから国内で本格化した縄文時代への関心の高まり、いわゆる縄文ブームは、読む人をたきつける魅力を含んだこの文章から始まったともいえそうです。

川崎市岡本太郎美術館 写真提供:川崎市岡本太郎美術館

岡本太郎が自身で撮影した縄文土器と土偶。左は長野県伊那市宮ノ前出土の深鉢形土器、右は新潟県糸魚川市一の宮出土の河童形土偶。昭和31年(1956223日、東京国立博物館にて撮影されたもの。写真提供:川崎市岡本太郎美術館

 縄文に突き動かされた岡本太郎はカメラを担いで縄文土器の撮影行脚を行います。東京近郊の大学や博物館を回り、シャッターを切り続けました。その写真は文様のアップや陰影が強いものなど、考古資料の標本的なものとは全く異なるものです。
「それぞれの土器が秘めた個性、激しさ。太郎自身が見た縄文土器のすごみを伝えたい。縄文土器のエネルギーや民族の生命力、そういったものがいかに人々に伝わるかというのが写真を撮るポイントだったと思います。」と佐藤さんは言います。

火焔土器に思わず叫んだ「なんだ、コレは!」

 「太郎は詳しく書き残してはいませんが、縄文土器の中でも、造形の面白さと激しさのある火焔型土器に非常に惹かれていたのは間違いないと思います。」と佐藤さん。
火焔型土器は、縄文時代中期の約5000年前に誕生し、鶏のトサカのような派手な4つの突起を持つ土器です。

 火焔型土器はほぼ新潟県域にしかなく、信濃川流域がその本場です。岡本太郎は長岡市で火焔型土器のルーツともいえる「火焔土器」を目にした時、「なんだ、コレは!」と叫んだといわれています。

「火焔土器」は昭和11年(1936)12月31日に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で近藤篤三郎(とくさぶろう)が発見。「火焔土器」はこの1個の土器だけに付けられた愛称です。新潟県長岡市教育委員会所蔵

 火焔土器」は現在、出土した馬高遺跡に隣接する馬高縄文館で展示されています。JR長岡駅新幹線コンコースには火焔土器のモニュメントがありますが、その除幕式には岡本太郎も参加したそうです。

馬高縄文館で展示されている岡本太郎が書いた芳名録(※5)

 岡本太郎に衝撃を与えた「火焔土器」。その姿を目の前にした時の驚愕と感動を記した芳名録が長岡市の馬高縄文館で展示されています。

※5:イベントや冠婚葬祭の式典で受付などにおいて参加者や来場者に記名してもらうための冊子。

新潟県長岡市教育委員会所蔵

 芳名録には紙いっぱいに「火焔土器の激しさ優美さ」との一文が書かれています。

 馬高縄文館の小林館長によると、芳名録には日付はなく、いつ「火焔土器」を見たのかは不明だそうです。「一つ考えられるのは、昭和39年(1964)8月に長岡現代美術館の開館披露に岡本太郎が招かれ、そのタイミングで火焔土器も観覧していたのではないかということです。当時、火焔土器は悠久山にあった長岡市立科学博物館で展示されていて、来訪した著名人に当時の考古学研究室長である中村孝三郎が芳名録を書いてもらっていました。」

 他にも岡本太郎は芳名録に「雪深い中で見る火焔土器」と書き残していて、「火焔土器」を見に冬にも長岡市を訪れていたのかもしれません。
 こうして新潟にも訪れていた岡本太郎。
 「改めて新潟との関わりを調べると、妙高市赤倉や阿賀町にも行っていることが分かりました。」と佐藤さん。
 岡本太郎の新潟での足跡をたどってみます。

スキーと温泉、祭り。新潟の自然と文化を楽しむ

赤倉サンクラブ 昭和35年(1960) 写真提供:川崎市岡本太郎美術館

 「昭和33年(1958)に岡本太郎が中心となって友人たちと建てた『赤倉サンクラブ』というプライベートロッジが妙高市赤倉にあります。建築は戦後の住宅建築で著名な清家清(せいけきよし)が担当し、外壁にあるシンボルマークは太郎さんがデザインしています。毎年冬になると赤倉に通い、そのロッジに泊まってスキーをしていたという記録が残っています。秘書の岡本敏子さんも一緒に行き、友人やその家族と交流しながら大好きなスキーを楽しんでいたようです。」と佐藤さん。

 ちなみに岡本太郎はプロ顔負けのスキーの腕前だったそうですが、本格的にスキーを始めたのは赤倉サンクラブを建てる前年、46歳の時でした。

昭和35年(1960)、赤倉サンクラブにて。スキーウエアの腕に入っているのが、岡本太郎がデザインした赤倉サンクラブのシンボルマークです。写真提供:川崎市岡本太郎美術館

 現在の管理人さんに話を聞くと、赤倉サンクラブは会員の方々が大切に利用しているそうです。一つしかない風呂には赤倉温泉の源泉が引かれていて、岡本太郎がデザインした、風呂使用中の男女それぞれのサインは現役。岡本太郎も赤倉の湯を存分に楽しんだようです。

岡本太郎が撮影した『ショウキ祭り』。東蒲原郡阿賀町で毎年2月から3月にかけて行われる伝統行事で、集落総出で無病息災や五穀豊穣などを願い、自分の厄を紙に書いてわらに結んで埋め込み、わら人形の鍾馗(しょうき)様を作ります。その姿や大きさは集落によって異なります。神事を行い、百万遍(ひゃくまんべん・※6)や祝宴の後、人形を担いで集落の出入り口のお堂に祀ることで、わら人形は疫病や災いの侵入を防ぐ集落の守護神となります。新潟県の無形文化財。昭和53年(1978)2月5日撮影 写真提供:川崎市岡本太郎美術館

※6:本来、念仏を百万回唱え、自身の往生や願いを叶えたり、故人を供養したりするものです。現在では、正月から2月上旬頃までに集落の人々が集まり、数珠を送りながら「南無阿弥陀仏」を唱え、それを百回繰り返すことで百万回を唱えたことにしています。

 岡本太郎は、日本各地の祭りを丹念に取材してカメラに収めています。それは作品としてではなく、雑誌の連載記事で自分が伝えたいことの文章の補足、挿図として撮影していたそうです。
 新潟の祭りでは、東蒲原郡阿賀町の『ショウキ祭り』を撮影したフィルムが残っていたといいます。「太郎は昭和53年(1978)2月4日に羽田空港から新潟へ入り、阿賀町の角神温泉で1泊。翌日、鹿瀬と平瀬の集落で鍾馗様を取材しています。その後は五頭高原スキー場と胎内スキー場でスキーを楽しんでから帰京したことが分かっています。」と当時の岡本太郎の足取りを佐藤さんが教えてくれました。

十日町名物の布海苔そばを好んだ岡本太郎

 十日町市の老舗「名代生そば 由屋」の看板の文字を書いたのが、他でもない岡本太郎です。

 どうして看板の文字を岡本太郎が書いたのか、2代目の石澤忠夫さんが教えてくれました。「太郎さんはよくスキーをしに長野県の野沢温泉に来ていて、当時の野沢温泉村の村長さんと仲が良かったんですね。村長さんが太郎さんをうちに連れてきてくれて、それ以来、よく来てくださるようになりました。サインを恐る恐る頼んだら、太郎さんは快く応じて店の名前を色紙に書いてくださったんです。40年近く前に店を新しくした時、許可をもらって、その文字を拡大して看板に使わせていただきました。」

お話を聞かせてくれた「名代生そば 由屋」2代目石澤忠夫さん。

 「太郎さんは2階の広間で大きなへぎに入った布海苔そばと天ぷらを、一緒に来られた方々と分け合いながら召し上がっていました。うちは昔からメニューはそばと天ぷらだけなんです。」と石澤さん。

地元の玄そばを毎朝石臼で挽き、布海苔と合わせて打ったそば。薬味が辛子なのもこの地域ならでは。

 店内には岡本太郎直筆の色紙や収集した岡本太郎の作品、関連グッズが飾られ、県内外から訪れる岡本太郎ファンも多いそうです。

看板の文字に使われた色紙。

岡本太郎作品「いこい」

岡本太郎作品「プロムナード」

◎名代生そば由屋 新潟県十日町市土市第4 TEL025-758-2077

 

参考文献/
佐々木秀憲・著『もっと知りたい岡本太郎 生涯と作品』(東京美術、2013)
岡本太郎・著『伝統との対決 岡本太郎の宇宙3』(筑摩書房、2011)
川崎市岡本太郎美術館・編『岡本太郎と日本の祭り』(二玄社、2011)
十日町市博物館・編『岡本太郎が見て、撮った縄文』(十日町市博物館、2021)
東北芸術工科大学東北文化研究センター・編『季刊東北学第13号』(柏書房 東北芸術工科大学東北文化研究センター、2007)

 

前の記事
一覧へ戻る

次の記事はありません