file-28 川がつくった新潟 -その3 「江戸時代の限界」
越後平野の平地は低く海岸線は砂丘にさえぎられている地形のため、信濃川などの氾濫によりあふれ出た水はなかなか引かず、やがて潟や沼が形成されていきました。
(大河津分水双書第5 巻より引用・加筆)
江戸時代になると松ヶ崎堀割(川がつくった新潟2 参照)や内野新川開削(三潟悪水抜堀割)により田畑の水はけは改善され、当時の塩津潟や田潟、大潟などが代表とされるように、かつて潟や沼だった場所は干拓され各地で新田開発も盛んに行われたため、江戸初期から幕末までの間に、越後の石高(米の収量)は3倍近くに伸びました。
しかし、越後平野の低い地形により時代とともに増加する人口が氾濫原へ進出したことや、元来潟が持っていた川の遊水池としての機能が干拓によりその機能が失われたこともあり、水害は絶えることがありませんでした。現在の燕市、三条市、新潟市などの信濃川下流域において、江戸時代を通じて残っている記録によると、堤防が切れた箇所は約80箇所と言われており、平均すると3 年に一度は堤防が切れていたことになります。
享保年間(1716-1735)には寺泊(現長岡市)の本間屋数右衛門が新田開発を目的とし大河津分水建設を幕府に請願しました。これは、信濃川が最も日本海に近づく現在の燕市大川津から長岡市野積の間に分水路を開削し、上流から流れてくる洪水は分水路を通じて日本海へ流し、信濃川下流域には農業や生活に必要な水量だけを流すというもので、現在の大河津分水と同じ機能を持つものでした。
しかし、分水路の開削には高さ約100メートルの山地部を掘削しなければならず技術的に極めて困難で、莫大な費用が必要であることなどから、幕府は大河津分水建設を許可しませんでした。その後も、多くの人々によって大河津分水建設が請願されましたが、同様の理由により許可されることはありませんでした。
(西蒲原土地改良史より作成)
また、技術的な限界と同時に、政治的な限界も存在していました。当時の越後は小さな藩に別れ、天領や国外の藩の飛び地が散在していました。それぞれの管理のもとに上流や対岸で行われた工事が別の藩に被害をもたらしたり、上流の藩と下流の藩の利害が対立して必要な工事ができなかったりしていたのです。新発田藩の学者小泉蒼軒(1797-1873)は「蒲原郡水害の記」で次のように指摘しています。
(以下引用)
諸領々々多く入交じり、おのれおのれが勝手ばかりをなさんとするから実談にはいたらで、はては只才あるものにあざむかれ、いきほいあるものにおしつけられて事を決め、水道の実理にかなえるものまれなれば、多少こそあれ年々に水害はのがれがたきなり。をしむべし。
つまり、越後平野の水害は人災であるという指摘です。
file-28 川がつくった新潟 -その3 横田切れの悲劇と大論争
(信濃川大河津資料館展示図録より引用)
幕府によって幾度も退けられてきた悲願の大河津分水建設がようやく着手されたのは、戊辰戦争が終わって間もない明治3(1870)年でした。明治政府によって開削工事が進められましたが、コンクリートや大型機械を用いた近代的な技術はなく、人力での工事は困難を極めました。特に山地部は掘っても地滑りによって地盤が隆起するため「化け物丁場」と呼ばれ恐れられていました。
一方、大河津分水建設は新潟港の整備と深く関係していました。当時の新潟港は、幕末に諸外国と約束した開港5 港の一つになっていましたが、享保15年(1730)に阿賀野川の松ヶ崎堀割工事(川がつくった新潟2 参照)が行われてからは、港に流れ込む流量が減り水深が浅くなり大きな船が入港できなくなっていました。このような背景の中、明治4(1871)年にはイギリス人技師ブラントンが、明治6(1873)年にはオランダ人技師リンドーが、相次いで大河津分水工事に反対する調査結果を明治政府に報告しています。その内容は、治水対策から見た場合の大河津分水の効果は認められるものの、①信濃川下流の流量が減少すると新潟港に砂が堆積して機能が損なわれることは避けられない②信濃川下流の水位低下により信濃川からの取水が不可能となり灌漑に支障を来す③以上のような点を踏まえ信濃川本流の河身改修と堤防修築工事の方が費用・効果両面で得策である-というものでした。
明治政府はブラントンとリンドーの報告書を踏まえ、明治8(1875)年に大河津分水工事を廃止し、掘削がほぼ完了していた平地部は埋め戻されてしまいました。
その後も、大河津分水建設を求める人々の請願活動は続きました。県議会では推進、反対を巡って幾度も論争が起こり、田沢実入(みのり)や鷲尾直政(いずれも越後平野の地主)らは新聞に意見を掲載したり、県内外の多くの人に建設の有用性を説いて働きかけを行いました。特に田沢は父与一郎の代から大河津分水建設推進に私財を投じ、内務省勤務を経て大河津分水工事にも参加。大河津分水に生涯を捧げ、現在大河津分水の堤防にある桜並木の植樹を始めた人として知られています。削がほぼ完了していた平地部は埋め戻されてしまいました。
そのような中、明治29(1896)年7 月22 日、新潟県全域で河川が氾濫し越後平野のほぼ全域が浸水する大被害が発生しました。この水害は、現在の燕市横田にて信濃川堤防が約300メートルに渡って欠壊したことから後に「横田切れ」と呼ばれるようになりました。
浸水はひどいところで3ヶ月にもおよび、農作物は全滅、不衛生な環境と食糧難から伝染病も発生、多くの人々が犠牲となりました。
横田切れの破堤箇所
(信濃川大河津資料館展示図録より引用) |
横田切れの浸水範囲-緑色の範囲
(信濃川大河津資料館展示図録より引用) |
横田切れによる浸水状況
(信濃川大河津資料館展示図録より引用) |
死者
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負傷者
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家屋流失
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家屋全半壊
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床上浸水
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床下浸水
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43
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35
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180
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4,120
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43,684
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16,936
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※ 大河津分水双書資料編「横田切れ」から作成。
死者には後にまん延したコレラ、赤痢、チフスなどによる死亡者は含まれていない。
この時の新潟県全体の被害総額は約1200 万円。当時の新潟県の年間予算とほぼ同額です。明治30(1897)、31(1898)年にも大規模な水害に見舞われ、新潟県は毎年年間予算の1/4
を治水関係工事に充て財政を逼迫します。この一連の水害が、国による大河津分水工事再開の契機となります。この水害の前年に日清戦争の講和条約が締結され、政府が国内に資本を投じられる状況になったことも大きな要因の一つと考えられています。
file-28 川がつくった新潟 -その3 悲願の大河津分水
大河津分水建設が再び着工したのは明治42 (1909)年。明治政府はこれより先に淀川水系に2つの堰を築いていましたが、大河津分水はその規模においても、求められる土木技術においても難しく、最新鋭の工作機械が導入され「東洋一の大工事」と評されました。
工事期間は13 年、掘削延長は約10 キロメートル、水量調節の3 つの堰の建設。運び出した土砂は2,880万立方メートル(10トン積みダンプカーで524 万台分)で、働いた人は延べ1,000 万人に達しました。山地部では発生した3 回の地滑りなどやその工事において84名の方の尊い命が失われました。工事は困難を極め、完成を予定していた時期より遅れたものの、多くの熱意と技術、犠牲の上、ついに、大河津分水は大正11(1922)年、分水路に通水しました。幕府に初めて分水開削の請願が出されてから、およそ200 年後のことでした
大河津分水工事の様子
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しかし、信濃川の洪水のエネルギーによって川底が削られてしまったため、運用から5 年後の昭和2(1927)年、分水路側に設けた堰が陥没してしまいました。これによって信濃川は、上流から流れてくる水が分水路へと流れ、信濃川下流の越後平野へはほとんど水が流れなくなってしまいました。
そこで、パナマ運河建設に関わって最新の技術を習得していた青山士(あきら)らが陥没した堰の補修工事に参加しわずか4 年でその工事を無事に完了させました。地元では彼の人柄を慕う人が多く、生まれた子供に「士」と名を付ける人が何人もいたと伝えられています。
現在の大河津分水は、信濃川下流に毎秒270 立方メートル-新潟市や三条市など信濃川下流域の人々が生活用水や農業用水として必要な水量-を流し、残りを全て日本海に放流し続けています。下流域の越後平野は毎年のように襲ってきた洪水から解放され、穀倉地帯に生まれ変わることができたのです。平野一面の田んぼが見られるようになったのも、新潟が米どころとして知られるようになったのも、大河津分水が通水して以降の、まだ100年にも満たない間の出来事なのです。
大河津分水と越後平野
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資料・写真提供:大河津資料館
file-28 川がつくった新潟 -その3 県立図書館おすすめ関連書籍
県立図書館おすすめ「川がつくった新潟 大河津分水」関連書籍
こちらでご紹介した作品は、新潟県立図書館で読むことができます。貸し出しも可能です。
また、特集記事内でご紹介している本も所蔵していますので、ぜひ県立図書館へ足をお運びください。
ご不明の点がありましたら、こちらへお問い合わせください。
(025)284-6001(代表)
(025)284-6824(貸出延長・調査相談)
新潟県立図書館 http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/
▷『図説大河津分水前史 信濃川の自然と先人の志を語る(大河津分水双書 通史編 第9巻)』
(五百川清/編著 北陸建設弘済会 2009 N517-H82)
タイトルに「前史」とあるとおり、信濃川流域の地形や洪水被害について科学的視点のみならず歴史的な観点からも解説。図や写真が豊富でわかりやすくビジュアルな一冊です。
▷『郷土(ごうど)の史(れきし) 信濃川大河津分水にまつわる話』
(渡部武男/著 北陸建設弘済会 1982 N517-W46)
1982年に出版された少々古い資料ですが、大河津分水に関する歴史的資料を通覧するには最良の一冊です。
▷『洪水と治水の河川史 水害の制圧から受容へ』
増補 大熊孝/著 平凡社 2007 517-O55)
近代における一大水防事業であった大河津分水開削の経緯、利根川の治水やダムによる洪水調節の機能について、技術革新の歴史にそって記述されています。江戸時代から現代まで続く水害に、負けまいとする人々の気概を感じることができるでしょう。
▷『川がつくった川、人がつくった川 川がよみがえるためには(10代の教養図書館 30)』
(大熊孝/著 ポプラ社 1995 N517-O55)
ティーンズ向けに河川のメカニズムを平易に解説しています。地域の防災や環境問題を考えるきっかけになる一冊 。
▷『水害の世紀 日本列島で何が起こっているのか』
(日経コンストラクション/編 日経BP社 2005 郷貸369-N73)
近年多発する洪水被害を受けて出版された一冊。2004年の7.13水害での決壊した刈谷田川の堤防など、自然の猛威を感じさせる写真が多数掲載されています。後半の復旧や復興に関する記事からは、今後の備えについて多くのヒントをもらえそうです。
▷『物語分水路 信濃川に挑んだ人々』
(田村喜子/著 鹿島出版会 1990 913.6-Ta82)
昭和2年の大河津自在堰陥没事故に始まる、その補修工事に臨んだ内務技師・宮本武之輔を描いた小説。建築・土木やデザインに関する本の出版社・鹿島出版会が刊行した小説作品で、壮大なスケール感が魅力の一冊です。