database

域文化 データベース

長岡市

「花火」と「米百俵」のまち

新潟県のほぼ中心に位置し、新潟市に次いで二番目の人口規模である長岡市。広大な敷地で四季折々の自然が楽しめる国営越後丘陵公園や、通称「魚のアメ横」と呼ばれる寺泊の魚の市場通りなどの人気スポットもあります。戦国時代は武将・上杉謙信が栃尾地域で旗揚げし、直江兼続が与板地域を拠点に活躍。他にも最後のサムライと称される・河井継之助、「米百俵」で知られる小林虎三郎、連合艦隊司令長官・ 山本五十六など、歴史上の偉人とのゆかりが深い場所です。また、「長岡まつり大花火大会」は、 日本三大花火大会として全国的な知名度を誇ります 。夏の夜空に大きく花開く「正三尺玉」や幅約2kmにも及ぶ復興祈願花火「フェニックス」は、視界に収まりきらないほどの壮大なスケール。訪れた観客を感動に包みます。

地域文化
データベース検索

  • 栄凉寺

    この栄凉寺には、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮をとった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億二郎らの墓があります。 -栄凉寺墓地内知名士の墓- 光輝山栄凉 […]
  • 長興寺

    長興寺には、長岡藩大隊長として活躍した山本帯刀をはじめ、長岡藩士家族の墓があります。その中で、稲垣平助家は長興寺を興し、長岡藩家老職でした。また、太平洋戦争で連合艦隊司令長官として南海の空に散った、山本 五十六(やまもと […]
  • 西福寺

    慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島、槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を攻撃してきました。この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したと […]
  • 光福寺

    小千谷の慈眼寺での和平会談決裂後、前島村で開戦を決意した河井 継之助(かわいつぎのすけ)は長岡藩の諸隊長を長岡藩本陣であるこの地に集め、新政府軍に対し、開戦の決意を演説しました。 出典: 『長岡市ホームページ』 提供元: […]
  • 普済寺

    この普済寺には、三間豊蔵や牧野金太郎など、北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑があります。さらに石段を上ると市街地の眺望がきくところに、初代藩主牧野忠成公の墓があります。 出典: 『長岡市ホームページ』 […]
  • 八丁沖古戦場パーク

    八丁沖は長岡の東北郊外、百束(ヒャクソク)、大黒(ダイコク)あたりから、南は富島(トミジマ)、亀貝(カメガイ)にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地でした。河井 継之助(かわいつぎのすけ)は、長岡城奪回のため、 […]
  • 大黒古戦場パーク

    慶応4年(1868)の夏、このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、長岡、会津、米沢藩兵らの奥羽越同盟軍と薩摩、長州藩兵らの新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所で、付近の人びとは、その勇戦を讃え碑を建てました。 […]
  • 米百俵の群像

    「米百俵の群像」は、山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演した時の一場面を、ブロンズの像で再現したものです。原型を制作したのは長岡市美術協会(米百俵群像制作委員)の6名で、群像は全部で12体あり、立像は高さ2メートル余 […]
  • サフラン酒の縵絵

    明治から昭和にかけて「養命酒」と勢力を二分した薬用酒「サフラン酒」で財を成した長岡の傑物吉沢仁太郎の屋敷の蔵。東洋のフレスコ画とよばれる「縵絵」で飾られたこの蔵には、十二支をはじめとする17種の動物・霊獣・9種の植物が極 […]
  • 木喰上人作 観音像

    木喰上人(1718-1810)は甲斐国(現山梨県)に生まれ、22歳で出家し、45歳のとき木喰戒を受け、56歳で廻国修行の旅に出て、仏像千体彫刻を発願しました。宝生寺木喰仏は、文化元年(1804)夏、この地を訪れた上人が境 […]
  • 大積の大つつじ

    琉球つつじの老木で、推定樹齢は800年です。まわりに長さ3~4メートルの枝を分岐し、樹勢なお旺盛です。つつじとしては珍しい巨木で、花の咲くころは庭一面に白く輝き、まさに壮観です。 出典: 『長岡市ホームページ』 提供元: […]
  • 香林寺のしだれ桜

    一重の紅しだれ桜で、天正年間に香林寺建立の際、仙台の伊達城から移植されたと伝えられ、目通り周囲3.25メートル、高さ約20メートル、推定樹齢400年です。樹勢は北西側が旺盛ですが、地上4メートルくらいまでの樹幹の一部が朽 […]