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  • 長興寺

    長興寺には、長岡藩大隊長として活躍した山本帯刀をはじめ、長岡藩士家族の墓があります。その中で、稲垣平助家は長興寺を興し、長岡藩家老職でした。また、太平洋戦争で連合艦隊司令長官として南海の空に散った、山本 五十六(やまもと […]
  • 西福寺

    慶応4年(1868)5月19日、榎峠の攻略が難しいと判断した新政府軍は、大島、槇下から信濃川を渡河し、直接長岡城を攻撃してきました。この時、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したと […]
  • 光福寺

    小千谷の慈眼寺での和平会談決裂後、前島村で開戦を決意した河井 継之助(かわいつぎのすけ)は長岡藩の諸隊長を長岡藩本陣であるこの地に集め、新政府軍に対し、開戦の決意を演説しました。 出典: 『長岡市ホームページ』 提供元: […]
  • 普済寺

    この普済寺には、三間豊蔵や牧野金太郎など、北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑があります。さらに石段を上ると市街地の眺望がきくところに、初代藩主牧野忠成公の墓があります。 出典: 『長岡市ホームページ』 […]
  • 八丁沖古戦場パーク

    八丁沖は長岡の東北郊外、百束(ヒャクソク)、大黒(ダイコク)あたりから、南は富島(トミジマ)、亀貝(カメガイ)にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地でした。河井 継之助(かわいつぎのすけ)は、長岡城奪回のため、 […]
  • 大黒古戦場パーク

    慶応4年(1868)の夏、このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、長岡、会津、米沢藩兵らの奥羽越同盟軍と薩摩、長州藩兵らの新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所で、付近の人びとは、その勇戦を讃え碑を建てました。 […]
  • 米百俵の群像

    「米百俵の群像」は、山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演した時の一場面を、ブロンズの像で再現したものです。原型を制作したのは長岡市美術協会(米百俵群像制作委員)の6名で、群像は全部で12体あり、立像は高さ2メートル余 […]
  • 旧機那サフラン酒製造本舗

    長岡市や摂田屋地区の魅力・情報を発信する交流拠点施設が旧機那サフラン酒製造本舗です。ここでは、地元食材を活かしたメニューが堪能できるカフェ、特産品販売コーナーがあるほか、長岡出身の絵本作家・松岡達英さんの絵本なども展示さ […]
  • 木喰上人作 観音像

    木喰上人(1718-1810)は甲斐国(現山梨県)に生まれ、22歳で出家し、45歳のとき木喰戒を受け、56歳で廻国修行の旅に出て、仏像千体彫刻を発願しました。宝生寺木喰仏は、文化元年(1804)夏、この地を訪れた上人が境 […]
  • 大積の大つつじ

    琉球つつじの老木で、推定樹齢は800年です。まわりに長さ3~4メートルの枝を分岐し、樹勢なお旺盛です。つつじとしては珍しい巨木で、花の咲くころは庭一面に白く輝き、まさに壮観です。 出典: 『長岡市ホームページ』 提供元: […]
  • 香林寺のしだれ桜

    一重の紅しだれ桜で、天正年間に香林寺建立の際、仙台の伊達城から移植されたと伝えられ、目通り周囲3.25メートル、高さ約20メートル、推定樹齢400年です。樹勢は北西側が旺盛ですが、地上4メートルくらいまでの樹幹の一部が朽 […]
  • 石彫の道

    長岡市の東南約10km、ハイキングで賑わう南蛮山の中腹に「石工の道」が復元され、その周辺にユニークな彫刻の森があります。昭和56年頃から、市内の彫刻家を中心とした県内一円の作家が、長年の歳月をかけコツコツと制作した個性あ […]