
file-8 佐渡の金銀山 一国天領に開いた文化
金銀山開発のため、佐渡島が丸ごと天領になったのは1601年。関ヶ原の戦いの翌年のことでした。以来平成元年まで金、銀、銅を産出し続けてきた佐渡は、常に最先端の技術が集まりさまざまな文化が生み出されました。一国天領として、他にない独特の歴史を歩んできた佐渡。黄金の島をご紹介します。


佐渡金山発見の端緒となった道遊の割戸の大露天堀り跡。
佐渡で金が出るという記述の初出は、平安時代にまとめられた「今昔物語集」です。今からおよそ千年の昔には、「佐渡ほど金が出るところはない」という評判が京まで届いていました。
当時の金の採掘は後に徳川幕府が開発する相川金銀山ではなく、西三川砂金山で採れる砂金でした。その後1542年以降に鶴子銀山、新穂銀山が相次いで開発され、17世紀に入って相川金銀山が開発されました。佐渡金山といえば旧相川町の相川金銀山をさしますが、佐渡には複数の金銀山があったのです。
徳川家康は金山開発のため大久保長安を代官として派遣します。長安は武田信玄に仕えた前歴の持ち主で、武田領で金山開発に携わっていたとされる人物。この時期同じく天領になった石見銀山を始め、甲斐など全国の重要な鉱山開発を任されていました。長安は全国からさまざまな技術者を集め、相川の町、街道、金の積み出し港として小木港などを整備。金の産出量を一気に伸ばします。江戸時代を通じては、年間産出量はこの時期が最も多かったとされています。そしてこの間に佐渡奉行所が建てられ、当時メキシコのバチューカ鉱山で採用されていた最新のアマルガム精錬を導入、1622年からは佐渡で小判の鋳造が始まりました。
金山経営の形態は、現在イメージするような意味での「直営」ではありませんでした。山師に権利を譲って開発させ運上金を取る請山があり、直山と呼ばれた経営法でも消耗品を負担した以外は開発者に経営を任せていました。しかし採算が悪くなったり、坑道が浸水して掘れなくなってきたりすると山師、奉行所双方ともに鉱脈を放棄します。このため金の産出量は常に不安定で、江戸時代中期以降は奉行所負担で開発が進められるようになりました。鉱山開発に必要な、水抜きなどの土木工事は、幕府の財政悪化を理由に行われず鉱脈が放棄される場合もあれば、同じ理由で増収を当て込んだ大規模投資が図られることもありました。