新潟の地域文化を紡ぎ繋げる 新潟文化物語

文化の丁字路~西と東が出会う新潟~

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file-9 文学の中の新潟~紀行編


センチメンタルな佐渡

かつての新潟町と夕日

かつての新潟町付近と夕日。平野の向こうに弥彦と角田山が見え、多くの旅人がこれを目指して歩いた。

 新潟県内でも特に佐渡を訪れ、紀行文を残した人は多いのですが、中でも象徴的なのが太宰治(だざいおさむ)(1909-1948)。

いわば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかもしれない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった
(佐渡)

と、佐渡へ向かう汽船に乗ります。新潟を訪れる人は、やや死にたい気分に陥っているケースが多いようです。結局は想像していた淋しさはなかったのですが、船から佐渡へ着岸するまでの記述が後の作家にも引用されていて有名です。佐渡島は山を二つくっつけた間に小さく平野があり一方を小佐渡、一方を大佐渡と呼びますが、太宰はそれを知らなかったために二つの巨大な島と勘違いしてしまいます。

…けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満州(まんしゅう)ではないかと思った。まさか、とすぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶苦茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に…
(佐渡)

佐渡を訪れる人の中には、今でもこの景色に驚く人がいるようです。「島」の持つイメージからすると大きすぎるようです。

 吉井勇(よしいいさむ)(1886-1960)も「寂しい」を連発しつつ佐渡を訪れています。佐渡から弥彦山を眺めて涙を流し、佐渡に流された順徳上皇(じゅんとくじょうこう)の無念を思い、佐渡おけさの中に哀調を探します。

「佐渡へ佐渡へと草木はなびく 佐渡は居よいか住み良いか」

この豪宕(ごうとう)な歌の文句にはふさわしくない程その節廻しには哀調があった。歌の聲(こえ)は綿々として盡(つ)きない恨み述べてゐるやうに悲しく浪の音に紛れて消えていつた。
(佐渡ケ島)

 佐渡は順徳上皇、日蓮、世阿弥らが政治犯として流され、流人の島として陰鬱なイメージがひときわ強いようですが、風光明媚で文化的な場所としても描かれています。長塚節(ながつかたかし)(1879-1915)は「佐渡が島」の中で生まれて初めて能を鑑賞します。村の人々の観能の様子や、舞っていたのが村の石屋や宿屋の主人だったことに対する驚きが描かれています。ブルーノ・タウトは

実に驚くべき調和を示している農家の屋敷があった。黒い用材と見事な白壁、平たく傾斜した屋根には押石が載せてある、また藁屋根の家もあった。時には一つの屋敷にこれ等の建築様式が一緒に集められているところもあり、それは私が日本で見た家屋のうちで最も雅致あるものの一つであった。
(日本美の再発見)

と書いています。井上靖(いのうえやすし)(1907-1991)は佐渡の文弥人形芝居の名人を訪ねたり、佐渡おけさを全国に広めた名人村田文三(むらたぶんぞう)の美声に接しました。

村田文三さんは相川の生まれで小さい時から鉱山に入り、精錬をやってゐたが、四十五六位の時レコードに吹き込んで、一躍有名になつてしまつた。
「鉱山では、佐渡おけさにしても、ベルトに合はせて唄ふので少し調子が早いんです」

さう言つて、おけさ節を早く唄つて聞かせてくれた。舞台では自信満々たる唄ひ方だが、座敷では少し恥しさうに、この老歌手は伏目になつて唄ふ
(大佐渡小佐渡)

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