file-102 銘菓を訪ねて~新潟で愛されたお菓子(前編)
新潟で愛されたお菓子―江戸から平成へ
おまんじゅうや羊羹、最中など、今、おなじみの和菓子の多くは江戸時代に完成しました。その背景には、享保の改革(1716~1745年)により砂糖の国内生産が始まったこと、政治・経済・文化の中心が江戸に移り、庶民の文化に密着した様々な菓子が作られたことが考えられます。新潟でも地域に根ざしたお菓子が誕生しました。その美味しい歴史をひもときます。
神様が名付けたお菓子
神様の前にかしこまった兎をかたどった「玉兎」。優しい口溶けと上品な甘さで、幅広い年代の支持を集める
耳の部分だけに紅をはいた「玉兎」など、組合の4店それぞれが工夫を凝らした商品を開発している
「今は、和三盆糖を使ったものや、落雁の餡入りなどはめずらしいと思います」と、神保さん
まず、越後一宮弥彦神社の兎の伝説から、お菓子の旅を始めましょう。
昔むかし、弥彦山に住む兎たちが、里へ下りては田畑を荒らし、農民を困らせていたそうな。その様子を知った弥彦大神様が兎を集めて諭すと、兎は涙を流して改心し、いたずらをやめました。喜んだ農民たちは、神様の前でかしこまった兎の姿を米の粉で作って献上。神様によって「良幸餅(うさきもち)」と名付けられたこのお菓子が、現在の「玉兎」の原型になったと言われています。
「でも、記録に残っているのは、文政4年(1821)に石瀬村(現・新潟市西蒲区)の本間貞作が考案した『兎まんじゅう』。兎の形の団子まんじゅうだと考えられています」と、弥彦銘菓玉兎組合の組合長・神保誠司さん。確かに、元治元年(1864)出版の、全国の産物を紹介した「越後土産」には、「弥彦まんちう」の名が見られます。
現在のような米粉を使った粉菓子になったのは明治以降。大正末には神社付近の菓子舗6店が玉兎組合を作り、「玉兎」の名を商標登録。その中の4店が今も作り続けています。
「丸まった形はそのままですが、大小様々なサイズ、耳を赤く彩ったもの、抹茶や香煎粉を混ぜ込んだもの、あん入り、こだわりの砂糖・和三盆を使ったものまで、それぞれの店が工夫して、いろいろなバリエーションを生み出しています」と神保さん。神様が愛でたという兎のお菓子は、材料や製法を変えながら、今も弥彦参りのお土産として人気を博しています。可愛い姿と上品な甘みから、茶席に使われることも多いそうです。
城下町に生まれた水飴
400年余、同じ製法で作り続けている「御水飴」。今は新発田ブランド認証商品として、市民に愛されている
次は、江戸時代初期の新発田と高田を巡ります。
慶長18年(1613)、新発田藩御用達菓子屋・菊谷が創業しました。名物は餅米を麦芽で発酵させて作った水飴。藩主に納めたことから「御水飴」と名づけました。現在もその製法を守り、100%天然由来の商品を作り続けています。「水飴は、お菓子でもあり、薬でもあったんですよ。江戸時代には、大麦を発芽させた麦芽は滋養強壮の効果を持つ漢方と考えられていましたから」と、17代目店主の秋山徹さん。
創業当時と同じ原料・製法の「粟飴」を復刻。餅米で作る水飴とは違う、濃い色と深いこくが特徴的。
ほぼ同じ頃、高田(現・上越市)には、粟飴が誕生していました。寛永元年(1624)、北国街道沿いに高橋孫左衛門商店が創業。粟を原料とした、コクのある水飴「粟飴」を売り出したのです。「もともと高橋家は、越前松平家に仕えていた武士。松平の殿様の高田入府に伴ってこの地へ来て、越前に伝わる粟飴を作り始めたのです」と、14代目の高橋孫左衛門さん。やがて、水飴を寒天で固めた「翁飴」、笹の葉に挟んで乾燥させた「笹飴」などの商品も開発。その人気は越後にとどまらず、江戸にも伝わり、江戸・京橋(現・東京都中央区)に支店を出店することに。全国区での有名店になっていきました。
「原料の米が豊富で、江戸時代後期には北前船によって砂糖の入荷量も増加。県内各地で名物のお菓子が誕生しました。」新潟県立歴史博物館の学芸員、渡部さん
新潟県内の有名な産物を相撲の番付表のように紹介している「越後土産」/新潟県立歴史博物館蔵
新潟県立歴史博物館・主任研究員の渡部浩二さんに、当時のお菓子事情を伺いました。「砂糖が広く普及するまでは、水飴は貴重な甘み。お菓子としてだけではなく、栄養剤、料理の味付けとしても、幅広く庶民の生活に浸透していました。お湯に溶かして飲むこともあったようです。主原料が米で栄養価が高いので、赤ちゃんを育てるお乳の代わりにもなりました。また、出産後のお見舞い品としても重宝されました。」
お乳がよく出るようにと願をかけ、お地蔵様に飴をなめさせたという「あめ地蔵」が上越市板倉区別所集落に残っています。そのうち3尊は、7月15日から9月4日まで、新潟県立歴史博物館で開催される夏季企画展「お菓子と新潟」で見ることができます。
地元の山の恵みをお菓子に
昭和47年(1972)の昭和天皇行幸に際して献上したことをきっかけに「深山(みやま)のしずく」と改名
最後は、県北地域の村上へ。朝日連峰など緑豊かな山々と日本海、山と海の二つの幸に恵まれて栄えてきた城下町です。
寛政5年(1793)、菓子司・酒田屋が創業。やがて、6代目店主・日下友吉が、村上の山々で採れる山ブドウを原料に、お菓子の試作に取り組みました。野生の山ブドウの甘酸っぱさをどのように活かすかと試行錯誤を重ね、明治20年(1887)、「山葡萄羹(やまぶどうかん)」を完成。地域に根ざした、新しい名物が誕生しました。
「通年販売ですが、やはり夏に好まれます。おしゃぎり祭りやお盆の帰省時に、故郷の味としてお買い求めいただくことが多いですね。夏は葡萄羹ばかり製造していた時期もあったようですよ」と、10代目店主・日下正平さん。原料は今も変わらず、新潟県と山形県にまたがる山々で採った山ブドウ。「サル被害で、山ブドウの収穫が難しくなっているのが気がかりで。美味しいんでしょうね、サルにとっても。」
後編では、歴史上の有名人に愛されたお菓子、多くの人々に愛されたロングセラーのお菓子をご紹介します。
■ 取材協力
渡部浩二さん/新潟県立歴史博物館 学芸課 専門研究員
神保誠司さん/誠月堂店主、弥彦銘菓玉兎組合組合長
弥彦銘菓玉兎組合/誠月堂、笹川菓子舗、糸屋菓子舗、長谷源菓子舗
菊谷(新発田市)
高橋孫左衛門商店(上越市)
酒田屋(村上市)
■ 関連イベント
夏季企画展「お菓子と新潟」
開催期間 2016年7月15日(金)~9月4日(日)
開催場所 新潟県立歴史博物館(長岡市)
開館時間 9時30分~17時(入場は16時30分まで)
休館日 7月19日(火)、25日(月)、8月8日(月)、22日(月)、29日(月)
観覧料 一般610円(480円)、高校・大学生400円(320円)、中学生以下無料
※( )は20名以上の団体料金
URL http://www.nbz.or.jp/