file-7 鮭の子、はらこ ~村上の鮭文化~
鮭文化圏と鰤(ぶり)文化圏という言葉がありますが、新潟県は富山県に接する糸魚川市と佐渡市を除いて鮭文化圏に属します。その中でも県北部の村上市は他の追随を許さないほど鮭を大切にする地域。世界で初めて鮭の人工増殖を行ったのも村上でした。村上と鮭の長くて深い、そしておいしい歴史をご紹介します。
ここでご紹介するものは、同じ新潟県でも村上以外では通じません。村上の鮭文化の一端をのぞいて下さい。
秋から冬にかけてまちのいたるところで、家々の軒先に頭を下にして吊された塩引鮭の姿が見られる。腹の部分を2段に分けて切るのは「切腹」を嫌った旧村上藩の名残りと言われる。
7世紀に定められた延喜式目(えんぎしきもく)によれば、米以外で国家に納める税は鮭と決められていました。保存性が高いこともあり、京ではたいへん珍重されるものだったようです。「楚割(そわり)」は腹を割いて塩干ししたもの、「鮭内子(こごもり)」は塩干しした鮭の腹に塩干しした魚卵を戻したもの、「背腸(せわた)」は わたの塩辛 のことで、何をどれだけ納めるかが決められていました。これは村上に限ったことでなく越後国全域で行われていました。佐渡は現在は新潟県ですが、当時は佐渡国という別の国。こちらは鮭ではなくアワビだったそうです。平安時代の世情について書かれた「新猿楽記」には、越後国の特産として鮭と漆が挙げられています。税が鮭でしたが、贈り物もやっぱり鮭。村上藩は参勤交代といえば立派な鮭を山ほど携えて江戸に上ったそうです。
村上城址より村上市街を望む。
右側に三面川の流れが見える。
鮭の話の前に村上の歴史を少し。村上市は新潟県内で市としては最北に位置しており、上杉謙信の時代には本庄氏が村上城を守り、謙信を補佐していました。上杉家が越後から米沢に移封されると、村上は9万石の藩として村上氏(市名とは関係ないようです)が村上城に入ります。その後なぜか幾度も藩主が変わり、一時は15万石まで伸びた所領は5万石へ。1720年に内藤氏が入るとようやく安定して幕末までの9代、内藤氏が藩主を勤めました。内藤氏が入った時から5万石ではありましたが、一時は15万石に見合った体制だったわけですから藩の財政は常に厳しかったようです。内藤氏入封(にゅうほう)と時期を同じくするように、鮭漁の 運上金 が激減します。かつては数百両の収入になっていたものが、数十両。時には値がつかない年もありました。これだけでも大きな痛手ですが、1700年代後半から1800年代の前半にかけては全国的な飢饉。村上も無縁ではなく、税収が落ち込みます。また、内藤氏は幕府の中でも京都所司代など要職を勤める家柄で、藩主の出費が多かったのも窮乏に拍車をかけていました。
村上藩にとって鮭の漁獲量の増大(=運上金増大)は、藩の行く末を左右するほどの大問題でした。そこで生み出されたのが「種川の制(たねがわのせい)」という鮭の自然保護増殖の技術でした。世界初というのは明治以降になって分かったことで、当時は村上藩独自の試みでした。
村上市内をとうとうと流れる三面川。
種川の制とはどんな仕組みだったのでしょうか。鮭が自分の生まれた川に産卵に戻ってくることを知っていれば、実は誰でも思いつくことです。村上藩が行ったのは、三面川の流れを分流して一つは鮭がさらに上流まで行けるように、一つは川底の砂利を整えて産卵場所を整えてやりふ化する卵を増やすことでした。こうした川の整備の確かな記録は残っていませんが、1763年に着手し1794年に完成したとされます。工事自体も大工事ではありましたが、この間さまざまな試行錯誤がなされたようです。
これを指揮したのが村上藩士の 青砥武平治 でした。最終的な完成は彼の没後6年になりますが、着実に成果が現れ運上金は内藤氏入封前の額に戻って行きます。そしてさらに増え、幕末には2000両を超える大きな財源になってゆきました。
種川の最終形は、三面川を三つに分けたものでした。一つは全く手を加えない流れ、残る二つには柵を設けて上流へ行けないようにし、手前に産卵場を整備したものです。この方式は後に庄内藩に導入され、山形県遊佐町の月光川を鮭の産地にします。幕末には蝦夷地開発に乗り出した幕府が石狩川支流を始め各地に産卵保護河川を設定しました。ちなみに、海外で鮭の人工ふ化場を整備した例は1857年のカナダが初出として知られています。村上はそれより100年近く早かったことになります。
種川の制の成功で財政を潤した村上藩ですが、時は幕末。奥羽越列藩同盟に加わった村上藩は戊辰戦争で新政府軍と戦うことになります。長岡が落城し、政府軍は村上に近づいてきました。この時の藩主信民はわずか19歳。先代藩主信親は江戸にいる間に戦争が始まり領国に戻れませんでした。藩内は佐幕派と恭順派に別れて収拾がつかず、幼い藩主は自害。佐幕派だった家老鳥居三十郎はこの時、恭順派は留め置き徹底抗戦を望む藩士だけを連れて城を出ます。そして米沢との国境で政府軍と交戦。城に残した恭順派には 城 に火をつけさせて恭順の意を示させました。村上藩はこうして、城下の町と種川を無傷で残しました。ただし鳥居三十郎がそこまで見越していたかどうかは、確証はなくたまたまそうなったということかも知れません。ただ、交戦派が城に留まっていれば、町は長岡と同じように焼き尽くされたことは確かです。
村上で古くから受け継がれてきた伝統的な鮭漁法「居繰網漁(いぐりあみりょう)」。
無傷で残り、鮭が常と変わらず遡上してきた種川は、町の人にとって大きな希望となったことでしょう。生き残った旧藩士は、生活に窮乏し種川の鮭の漁業権を得ようとします。旧藩士にしてみれば、種川の整備は藩で行い守ってきたものという自負もあります。明治7年にこの願いは時の大蔵卿大隈重信に許され、5年間という条件付きで独占が認められました。その後永年漁業権を認められて、昭和23年まで続きます。その間アメリカから人工ふ化の技術を導入して日本で初めて成功。明治17年には73万7378尾を捕獲。これは日本国内の単一河川では新記録です。この時には遡上する鮭の群れに竿をさしたら、竿が立ったまま川を上ったという逸話が残っています。
旧藩士たちは、これで得た収入を子弟の教育に費やしました。明治12年に当時としては珍しくバルコニーを備えた本町小学校を建設。さらに中学校を私学として設立します。後に県立村上中学校となりますが、私学の間は授業料が破格の安さに設定されていたといわれ、ここの卒業生を「鮭の子」と呼ぶようになりました。卒業してさらに上の学校に進む子弟には奨学金を与え、その中には法務大臣となった稲葉修(1909-1992)がいます。戊辰戦争後の長岡藩が、三根山藩から贈られた米を食べずに教育のために使ったという史実が「米百俵」として知られていますが、旧村上藩士は「こっちは学校を建てた上に奨学金も出したのに」と、長岡の方が知名度が高いことに首を傾げます。
その他公益事業や村上城址の植林整備、公益事業などにも乗り出し、村上の復興に貢献しました。もっとも鮭の子に関しては旧藩士の子弟しか恩恵が受けられず、町方とはずいぶん争ったという記録も残っています。しかし鮭と種川を大事に思う心に違いはないようで、村上の人に鮭のことを訊ねるとどれだけ時間があっても足らないのです。
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