第44回【「にいがた秋の文化財一斉公開」特別編】 企画展「小林古径の世界」と常設展「越後の都」レポート

 令和5年10月に新潟県内の国・県指定等文化財を一斉公開した「にいがた秋の文化財一斉公開」。
 今回は上越編として、小林古径記念美術館と上越市立歴史博物館を訪ねてきました。この2つの建物は高田城址公園内にあり、駐車場を挟んで隣接しているので訪れる際には2館とも見学することをおすすめします。

家々の軒から庇を長く出し、その下を通路として確保する雪国特有の「雁木(がんぎ)」が連続して並ぶ作りになっています

家々の軒から庇を長く出し、その下を通路として確保する雪国特有の
「雁木(がんぎ)」が連続して並ぶ作りになっています

 まず訪れたのは小林古径記念美術館で開催された「企画展『生誕140年 小林古径の世界』」です。

上越が生んだ偉大な日本画家・小林古径の初期から晩年までの作品39点が展示されていました

上越が生んだ偉大な日本画家・小林古径の初期から晩年までの
作品39点が展示されていました

 小林古径は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した上越市出身の日本画家で、近代日本画の展開に重要な役割を果たした画家の一人です。
 当時、西洋から押し寄せる新たな美術の潮流の中で、日本画は大きな変革を迎えていました。しかし、古径は日本画独自の特質を大切にしつつ、徹底的に研究して近代的な感覚を取り入れて熟成させた新古典主義とも呼ばれる画境に到達し、近代日本美術史に確かな足跡を残しました。

昭和24年(1949)頃の小林古径

昭和24年(1949)頃の小林古径

 その古径の作品を展示する小林古径記念美術館は、古径の作品を中心に上越市ゆかりの美術作家たちの作品を展示する美術館として、令和2年(2020)に開館しました。
 館内には古径の作品が常設展示されている「古径記念室」や、多彩な美術作品を紹介する「企画展示室」があります。さらに、講座やワークショップなどが行われる「二ノ丸ホール」も併設されています。

 また、敷地内には東京都大田区南馬込から移築、復元された国の登録有形文化財である古径の邸宅と、再現された古径の画室もあり、庭園には古径が作品に描いた植物や木々が植えられ、四季折々の景色とともに眺めを楽しむこともできます。

移築された古径の自宅今回の企画展では関係資料などが展示されていました

移築された古径の自宅
今回の企画展では関係資料などが展示されていました

 今回の企画展「生誕140年 小林古径の世界」は、古径の生誕140年を記念して、初期から晩年までの作品を「古径芸術の萌芽」、「大正期の飛躍」、「戦時下での制作」、「成熟の古径芸術」の4つの章と、「関係資料で古径を知る」、「古径の住まいと画室」の2つの章を加えた全部で6章の展示構成となっており、作品だけでなく書簡等の資料、邸宅、画室を同時に見ることのできる、まさにここでしか見ることのできない展覧会でした。

 初期の画業となる明治時代後半の作品を展示した「第1章 古径芸術の萌芽」では、古径が15歳頃から20代までの作品が並び、画風が確立する前の作品から、的確な写実と清澄な色彩を伴った独自の歴史画、そしてキリスト教や南蛮文化の受容があったことを裏付ける作品など、大正時代の幕開けとともに新たな画業を切り開いていった古径の作品が展示されていました。

「第1章 古径芸術の萌芽」画風が確立する前の、初期の古径作品が展示されていました

「第1章 古径芸術の萌芽」
画風が確立する前の、初期の古径作品が展示されていました

同じタイトルの作品「少女」若き日の古径の貴重な作品です

同じタイトルの作品「少女」
若き日の古径の貴重な作品です

 「第2章 大正期の飛躍」では、その名の通り、展覧会への出品や留学など精力的に創作活動をおこなっていた時期の作品が展示されていました。
 大正3年(1914)の第1回再興日本美術院展で入選後に発表し、高い評価を得た横6メートル以上ある巻物の「竹取物語」や、写実的な作品「芥子(けし)」が展示されていました。

「第2章 大正期の飛躍」院展出品作や、欧州留学など精力的に活動していた時期の作品が並びます

「第2章 大正期の飛躍」
院展出品作や、欧州留学など精力的に活動していた時期の作品が並びます

大正6年(1917)の作品「羅浮仙(らふせん)」三幅対形式で描かれ、中央に羅浮仙、左右に紅梅と白梅が配されています

大正6年(1917)の作品「羅浮仙(らふせん)」
三幅対形式で描かれ、中央に羅浮仙、左右に紅梅と白梅が配されています

 昭和時代に入ってからの「第3章 戦時下での制作」では、時局が戦争へと傾いていく中で制作された作品が展示され、当時の社会情勢に影響を受けながらも、古径自身の求める芸術をひたむきに貫いた気品あふれる作品たちが並んでいました。

「第3章 戦時下での制作」昭和19年(1944)には東京美術学校(後の東京藝術大学)の 教授に就任して後進の指導にあたりました

「第3章 戦時下での制作」
昭和19年(1944)には東京美術学校(後の東京藝術大学)の
教授に就任して後進の指導にあたりました

 終戦後、疎開先から東京に戻ってからの作品が並ぶ「第4章 成熟の古径芸術」。
 この頃には後進の教育に取り組み、近代日本画壇を代表する画家としての地位を名実ともに築き上げた古径でしたが、昭和27年(1952)頃から体調が悪化し、これまでのような大作の制作は控えながらも、余分を可能な限り削ぎ落とした簡潔明瞭な画面構成の作品を作り上げていきました。

「第4章 成熟の古径芸術」近代日本画壇を代表する画家としての作品が展示されていました

「第4章 成熟の古径芸術」
近代日本画壇を代表する画家としての作品が展示されていました

昭和26年、第16回清光会展出品作「丘」当時の現代的な女性を細部にわたって丁寧に描いています

昭和26年、第16回清光会展出品作「丘」
当時の現代的な女性を細部にわたって丁寧に描いています

 古径の身の回りの品などの関係資料が展示された「第5章 関係資料で古径を知る」では、旅先で上下線を間違えた電車に乗ってしまい、駅のホームで途方に暮れる古径自身のイラストを描いた書簡も展示されるなど、知られざる古径の素顔を知ることができました。

「第5章 関係資料で古径を知る」小林古径書簡(葉書)古径が家族や知人に宛てて送った葉書で、絵と文章が書かれています

「第5章 関係資料で古径を知る」小林古径書簡(葉書)
古径が家族や知人に宛てて送った葉書で、絵と文章が書かれています

 そして最後に観覧したのが、同美術館敷地内に移築された古径の住宅です。
 この住宅は古径が東京都大田区南馬込に建てた近代数寄屋造りの住宅で、現在は国登録有形文化財となっています。
 この住宅に隣接して別棟の画室も復元されており、古径が使っていた筆や絵皿などの画材も展示されており、古径の制作現場の雰囲気を感じることができました。

木造2階建て・数寄屋造りの小林古径邸建築家・吉田五十八(いそや)が設計し、平成13年(2001)春にこの地に移築されました

木造2階建て・数寄屋造りの小林古径邸
建築家・吉田五十八(いそや)が設計し、平成13年(2001)春にこの地に移築されました

古径が愛した書斎座りながらでも外光を調整できるように、障子戸は猫間障子になっています

古径が愛した書斎
座りながらでも外光を調整できるように、障子戸は猫間障子になっています

古径が手掛けた装丁本や作品志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『千羽鶴』などの作品が展示されています

古径が手掛けた装丁本や作品
志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『千羽鶴』などの作品が展示されています

書斎に続く半入側(座敷と濡れ縁の間にある通路)

書斎に続く半入側(座敷と濡れ縁の間にある通路)

2階の8帖間古径の寝室だった部屋でシンプルながら美しい仕上がりの部屋でした

2階の8帖間
古径の寝室だった部屋でシンプルながら美しい仕上がりの部屋でした

再現された古径の画室もともとは農家の家を改修して画室として使っていたといわれています

再現された古径の画室
もともとは農家の家を改修して画室として使っていたといわれています

25畳の広い画室食事の時以外、この画室から出ることなく制作活動に励んでいたといいます

25畳の広い画室
食事の時以外、この画室から出ることなく制作活動に励んでいたといいます

 この企画展では、小林古径記念美術館所蔵の作品に全国各地の美術館や個人所蔵の作品を加えた39点と関連資料37点が展示され、古径の芸術世界を見て感じることのできる貴重な機会となりました。
 日本が近代化していく中で、古径は葛藤や挑戦を繰り返しながら、人の心を動かす高い品格を持つ作品を制作してきたことを、この企画展を通してあらためて感じることができました。

 

 次に訪れたのが上越市立歴史博物館です。小林古径記念美術館に隣接し、こちらでは常設展の「越後の都」を見学することができます。

上越市立歴史博物館は小林古径記念美術館に隣接しているのでぜひ一緒に訪れることをおすすめします

上越市立歴史博物館は小林古径記念美術館に隣接しているので
ぜひ一緒に訪れることをおすすめします

 この「越後の都」とは、かつて上越市に越後国府が置かれ、越後国の中心地として繁栄した土地であることを指し、その歴史を産業や文化、雪国のくらしとともに紹介しています。

1階フロアには上越市の巨大マップが展示されています2階から見ても迫力があります

1階フロアには上越市の巨大マップが展示されています
2階から見ても迫力があります

 入口では壁一面を覆う巨大地図「越後国頸城郡絵図(複製)」が実物大のパネルで展示されています。
 こちらは米沢藩主上杉家に伝来した越後国の頸城郡(現在の上越市)の地図で、天正19年(1591)に豊臣秀吉が全国の郡絵図と検地帳の作成を命じた際に作られたものです。全国で制作された絵図のうち、現存するのはこちらの原本含めて2枚のみという貴重な資料です。

壁一面を覆う「越後国頸城郡絵図(複製)」約430年前に描かれました

壁一面を覆う「越後国頸城郡絵図(複製)」
約430年前に描かれました

 展示室内に進むと、「越後の都」の移り変わりを紹介する展示があります。
 戦国時代、上越市には春日山城が築かれ、江戸時代になると福島城、高田城へと城が移っていきました。城の移り変わりとともに「越後の都」の中心も同様に福島城、高田城へと引き継がれていく様子がわかります。
 年表のパネル展示やプロジェクションマッピングなどの展示と解説で楽しみながら見て回ることができます。

「越後の都」の変遷が年表パネルで展示されています

「越後の都」の変遷が年表パネルで展示されています

「越後の都」のプロジェクションマッピングこれだけでもしばらく眺め続けてしまいます

「越後の都」のプロジェクションマッピング
これだけでもしばらく眺め続けてしまいます

 次に展示されているのが「徳川の城」のコーナーです。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利して天下人への足がかりをつかんだ徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍になり、江戸幕府を開きました。しかし、まだ大坂城に豊臣秀頼が健在で、天下のゆくえも混沌としていたため、家康は北国の要衝(ようしょう)だった福島城(越後国頸城郡)の堀忠俊(ほりただとし)の領地を取り上げ、代わりに家康の子である松平忠輝(ただてる)に越後一国と信濃国北部を与え、新たに城を作ることを決めます。この城作りは東北、北陸、信越の各地方の13の大名に工事手伝いが命じられ、なかでも工事のまとめ役には忠輝の義父伊達政宗が任じられました。
 慶長19年(1614)3月に始まった工事は、複雑に入り組んだ3つの川の改修を伴う難しい工事でしたが、同年7月上旬にはおよその完成を見ました。このように幕府主導の天下普請の国家プロジェクトとして高田城は築城されました。
 その後に繁栄した高田城と城下町の様子も、模型や城下町マップ、VR映像でわかりやすく紹介しています。

「徳川の城」では、高田城築城について説明されており徳川家康がいかに重要視した城だったのかがわかります

「徳川の城」では、高田城築城について説明されており
徳川家康がいかに重要視した城だったのかがわかります

高田城の模型この下のフロアには高田城を中心とする城下町が描かれています

高田城の模型
この下のフロアには高田城を中心とする城下町が描かれています

 そして、今回の文化財一斉公開のメインでもある江戸時代の後半130年間にわたって高田藩主を勤めた榊原家や、上越市に残る藩祖榊原康政以来の文物を大型の展示ケースで紹介しています。

「榊原家の高田入り」榊原家の歴史、関連資料が展示してあるエリアです

「榊原家の高田入り」
榊原家の歴史、関連資料が展示してあるエリアです

 榊原家の初代康政は、徳川家康の近習(きんじゅう)として、武勇と知略に優れたことから徳川四天王と称されました。その後、家康から館林(現在の群馬県館林市周辺)10万石を与えられ、館林藩榊原家が成立しました。
 3代忠次のとき白河(現在の福島県白河市周辺)11万石、姫路(現在の兵庫県西南部)15万石へと移り、5代政倫(まさとも)の代で国替により初めて新潟県の村上を治めますが、6代政邦(まさくに)は再び姫路に移ります。そして榊原家9代の政永(まさなが)が寛保元年(1741)11月、姫路から高田へ所替えになり、そこから榊原家の統治は明治維新まで、政永・政敦(まさあつ)・政令(まさのり)・政養(まさきよ)・政恒(まさつね)・政敬(まさたか)の6代約130年に及びます。石高は15万石ありましたが、領地は新潟県だけでなく福島県にも散在しており、財政事情が良いわけではなかったようです。

 上越市立歴史博物館には榊原家代々の資料が保管されており、2~3か月に一度展示品を交換しているそうなので、訪れるたびに新たな榊原家の歴史を知ることができます。

 さらに、「近代の上越」というテーマで、石油産業、鉄道敷設、日本スキーの発祥など、変わりゆく上越の姿が広く展示、解説されていて、この地が近代においても越後の重要な地域であったことがよくわかります。

「近代の上越」明治時代以降、上越地域が変容する様子が展示されています

「近代の上越」
明治時代以降、上越地域が変容する様子が展示されています

「レルヒ少佐と日本スキー発祥」レルヒ少佐が日本に伝えた当時の一本杖のスキーの道具が展示されています

「レルヒ少佐と日本スキー発祥」
レルヒ少佐が日本に伝えた当時の一本杖のスキーの道具が展示されています

「変容する街」激動の時代に高田では頸城鉄道や映画館など次々と新しい文化が登場しました

「変容する街」
激動の時代に高田では頸城鉄道や映画館など次々と新しい文化が登場しました

 最後に展示されているのが「雪国の暮らしと民俗」です。
 降雪期でも人々が往来できるよう建物の庇を歩道まで伸ばした上越ならではの「雁木(がんぎ)」の実物大模型や職人の道具、昭和20年(1945)の3m77cmの積雪を体感する雪の壁、そして暮らしの道具が展示され、雪国の暮らしを体感することができます。
 また、目の不自由な女性が旅芸人として三味線を携えて各地を巡り唄を披露していた「瞽女(ごぜ)」についての展示もあります。江戸時代には全国で見られましたが、近代に入ると姿を次第に消していきました。高田瞽女の姿も昭和39年(1964)を最後に見られなくなったそうです。

「雪国のくらしと民俗」展示のテイストがガラリと変わり、シンプルながら引き込まれる作りになっています

「雪国のくらしと民俗」
展示のテイストがガラリと変わり、シンプルながら引き込まれる作りになっています

雪国の文化のひとつでもある「雁木」先人たちの知恵にあらためて感心します

雪国の文化のひとつでもある「雁木」
先人たちの知恵にあらためて感心します

1年のほとんどを旅していたという「高田瞽女」

1年のほとんどを旅していたという「高田瞽女」

 今回レポートした小林古径記念美術館と上越市立歴史博物館は、見どころ満載の美術館と博物館です。小林古径記念美術館では上越が生んだ偉大な画家の作品に触れ、上越市立歴史博物館ではこの地域の歴史の一端を垣間見ながら、地域の発展や変遷に思いをはせることができます。
 両館を訪れることにより、芸術の美と歴史の息吹が一度に感じられます。美術の鑑賞と歴史の探求を同時に楽しむ贅沢な時間を過ごすことができるでしょう。

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小林古径記念美術館
新潟県上越市本城町7-1(高田城址公園内)
電話:025-523-8680

上越市立歴史博物館
新潟県上越市本城町7-7
電話:025-524-3120

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