
file-7 鮭の子、はらこ ~村上の鮭文化~

種川の制の成功で財政を潤した村上藩ですが、時は幕末。奥羽越列藩同盟に加わった村上藩は戊辰戦争で新政府軍と戦うことになります。長岡が落城し、政府軍は村上に近づいてきました。この時の藩主信民はわずか19歳。先代藩主信親は江戸にいる間に戦争が始まり領国に戻れませんでした。藩内は佐幕派と恭順派に別れて収拾がつかず、幼い藩主は自害。佐幕派だった家老鳥居三十郎はこの時、恭順派は留め置き徹底抗戦を望む藩士だけを連れて城を出ます。そして米沢との国境で政府軍と交戦。城に残した恭順派には城に火をつけさせて恭順の意を示させました。村上藩はこうして、城下の町と種川を無傷で残しました。ただし鳥居三十郎がそこまで見越していたかどうかは、確証はなくたまたまそうなったということかも知れません。ただ、交戦派が城に留まっていれば、町は長岡と同じように焼き尽くされたことは確かです。

村上で古くから受け継がれてきた伝統的な鮭漁法「居繰網漁(いぐりあみりょう)」。
無傷で残り、鮭が常と変わらず遡上してきた種川は、町の人にとって大きな希望となったことでしょう。生き残った旧藩士は、生活に窮乏し種川の鮭の漁業権を得ようとします。旧藩士にしてみれば、種川の整備は藩で行い守ってきたものという自負もあります。明治7年にこの願いは時の大蔵卿大隈重信に許され、5年間という条件付きで独占が認められました。その後永年漁業権を認められて、昭和23年まで続きます。その間アメリカから人工ふ化の技術を導入して日本で初めて成功。明治17年には73万7378尾を捕獲。これは日本国内の単一河川では新記録です。この時には遡上する鮭の群れに竿をさしたら、竿が立ったまま川を上ったという逸話が残っています。
旧藩士たちは、これで得た収入を子弟の教育に費やしました。明治12年に当時としては珍しくバルコニーを備えた本町小学校を建設。さらに中学校を私学として設立します。後に県立村上中学校となりますが、私学の間は授業料が破格の安さに設定されていたといわれ、ここの卒業生を「鮭の子」と呼ぶようになりました。卒業してさらに上の学校に進む子弟には奨学金を与え、その中には法務大臣となった稲葉修(1909-1992)がいます。戊辰戦争後の長岡藩が、三根山藩から贈られた米を食べずに教育のために使ったという史実が「米百俵」として知られていますが、旧村上藩士は「こっちは学校を建てた上に奨学金も出したのに」と、長岡の方が知名度が高いことに首を傾げます。
その他公益事業や村上城址の植林整備、公益事業などにも乗り出し、村上の復興に貢献しました。もっとも鮭の子に関しては旧藩士の子弟しか恩恵が受けられず、町方とはずいぶん争ったという記録も残っています。しかし鮭と種川を大事に思う心に違いはないようで、村上の人に鮭のことを訊ねるとどれだけ時間があっても足らないのです。
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