特集 -File09-

file-9 文学の中の新潟~紀行編

 

新潟県は昔から学問や文学、俳諧(はいかい)の盛んな地でした。新潟出身の作家も多く、その作品は紹介しきれないほどです。ここでは新潟を訪れた作家の作品を紹介します。作品に残された作家の目を通して、新潟を感じて下さい。

農民が支えた文化

 明治初期には全国一位の人口を持っていた新潟県は、農村部でも学問や俳諧が盛んだったようです。江戸など各地で学問を修めて戻り塾を開いた人も多く、そうした人を訪ねる学者や文化人を、村人たちも歓待しました。そうした機会は、村人が最新の文化に触れる大切な時間でもあったのです。江戸時代には鈴木牧之(すずきぼくし)、良寛(りょうかん)。明治に入ると北一輝(きたいっき)や井上円了(いのうええんりょう)、会津八一(あいづやいち)、吉田東伍(よしだとうご)、諸橋轍次(もろはしてつじ)、相馬御風(そうまぎょふう)ら多くの知の巨人を輩出しました。彼らの中に一人も武家はいません。後世に偉大な足跡を残したこの人々を支えたのは、農民や町人たちの、文化を愛する心でした。

 

市振(糸魚川市)

芭蕉が越後の最後に泊まった市振(糸魚川市)。ここの関所を超えると越中であった。現在でも街道の松が残って、かつての姿を彷彿とさせてくれる。

    
の部分は詩句または作品からの引用です。

松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644-1694)

元禄2(1689)年3月27日に江戸を立った松尾芭蕉は弟子の河合曾良(かわいそら)を伴って北を目指しました。6月27日に山形県境の鼠ヶ関(ねずがせき)を越え、越後に入ります。村上では武家出身だった曽良がかつての主家の墓参を済ませ、新潟、弥彦、出雲崎、柏崎、直江津(上越市)、高田(上越市)、能生(のう)(糸魚川市)、市振(いちぶり)(糸魚川市)と海沿いを歩き富山に向かいます。越後では半月を費やし、直江津、高田では句会のため数泊しています。奥の細道にあるのは以下の三句です。

妻入屋根の続く町並みが有名な出雲崎

十返舎一九の「金草蛙」に繁盛の湊と描かれた出雲崎。かつては佐渡の金の積み降ろし港で、天領だった。間口が狭く奥行きの長い家並みは、景観の美しさで知られ、妻入屋根の続く町並みとして日本一。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)(1765-1831)

滑稽(こっけい)本の「東海道中膝栗毛」で一躍江戸の流行作家になった十返舎一九も新潟を数回訪れました。最初は長野県から高田(上越市)、柏崎、長岡、出雲崎、新潟、新発田を経て福島県会津に抜けています。そしてこの時の行程を逆さにした道中記「金(かねの)草蛙(わらじ)」第8編「越後路之記」を出版しました。高田(上越市)では粟飴(あわあめ)の店で舌鼓を打っていますが、ここで紹介された飴屋は現在も 高橋孫左衛門商店 として店を構え、今も変わらぬ味を守っています。

金草鞋の越後紀行の最後に、「当国七不思議之内」として6つが挙げられているので紹介します。

臭水(くそうず)の油(三条市、胎内市)
迦羅目岐(からめき)之火(三条市)
逆様(さかさま)竹(新潟市)
八房(やつふさの)梅(阿賀野市)
三度栗(阿賀野市)
弘智法印之故骸(こうちほういんこかい)(=ミイラ)(長岡市)

 

滝沢馬琴(1767-1848)

28年がかりで仕上げた壮大な物語「南総里見八犬伝」は、8人の犬士がそれぞれに旅を繰り広げますが、その一人、悌の玉を持つ犬田小文吾が越後を旅します。馬琴は北越雪譜を著した 鈴木牧之 と親交があり、小文吾が旅をするのも魚沼市と近い地方。おそらくは牧之から情報を得ていたことでしょう。

この中で旧山古志村(長岡市)の 牛の角突き が大変詳しく記述されています。今も行われているこの行事は、賭け事の対象となっていないこと、牛が傷つく前に離れさせることを特徴としていますが、八犬伝でも全くそのように記されており、角突き(国重要無形文化財)のいにしえを知る貴重な資料にもなっています。

 

明治以降

 幕末に初来日して後に駐日特命全権公使となったイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の「明治日本旅行案内」は、各地の交通や名所を詳しく記しています。清水峠を越えて新潟に入り「長岡から新潟まで汽船、あるいは川下りができるが汽船は必ずしもあてにできない」「P・ミオラ経営の西洋風料理店は…外国人に推奨する。朝食、軽食、夕食つきで一泊三ドル」などの記述があります。鉄道に主役の座を譲るまで新潟県内は川船が利用され、特に明治以降は汽船会社が幾つも設立されて隆盛していました。P・ミオラの料理店とは、新潟市の ホテルイタリア軒 。日本国内では最古参の洋食店で、けがをしたため所属していたサーカス一座と別れたP・ミオラ氏が開きました。

外国人では昭和に入ってドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)が新潟市や佐渡を訪れています。「日本美の再発見」では、佐渡の農村を賞賛していますが、新潟市に対しては、おそらくは市庁舎を消失した大火の直後だったこともあり、印象が悪かったようです。

1899年に療養のため新潟を訪れた尾崎紅葉(1863-1903)もあまり良い印象はなかったようで、新潟の水質の悪さに辟易した記述が「煙霞療養(えんかりょうよう)」にあります。当時の新潟市は縦横に堀割が巡らされた港町で知られていましたが、きれいな水は少なく飲料水は舟で桶売りされていました。

歌人の与謝野晶子(1878-1942)は開湯して間もない村上市の 瀬波温泉 を訪れ、

いちじろく瀬波に春の陽炎の立つと 噴き湯をとりなしてまし

など45首を残しています。

センチメンタルな佐渡

かつての新潟町と夕日

かつての新潟町付近と夕日。平野の向こうに弥彦と角田山が見え、多くの旅人がこれを目指して歩いた。

新潟県内でも特に 佐渡 を訪れ、紀行文を残した人は多いのですが、中でも象徴的なのが太宰治(だざいおさむ)(1909-1948)。

いわば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかもしれない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった
(佐渡)

と、佐渡へ向かう汽船に乗ります。新潟を訪れる人は、やや死にたい気分に陥っているケースが多いようです。結局は想像していた淋しさはなかったのですが、船から佐渡へ着岸するまでの記述が後の作家にも引用されていて有名です。佐渡島は山を二つくっつけた間に小さく平野があり一方を小佐渡、一方を大佐渡と呼びますが、太宰はそれを知らなかったために二つの巨大な島と勘違いしてしまいます。

…けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満州(まんしゅう)ではないかと思った。まさか、とすぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶苦茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に…
(佐渡)

佐渡を訪れる人の中には、今でもこの景色に驚く人がいるようです。「島」の持つイメージからすると大きすぎるようです。

吉井勇(よしいいさむ)(1886-1960)も「寂しい」を連発しつつ佐渡を訪れています。佐渡から弥彦山を眺めて涙を流し、佐渡に流された順徳上皇(じゅんとくじょうこう)の無念を思い、佐渡おけさの中に哀調を探します。

「佐渡へ佐渡へと草木はなびく 佐渡は居よいか住み良いか」

この豪宕(ごうとう)な歌の文句にはふさわしくない程その節廻しには哀調があった。歌の聲(こえ)は綿々として盡(つ)きない恨み述べてゐるやうに悲しく浪の音に紛れて消えていつた。

(佐渡ケ島)

佐渡は順徳上皇、日蓮、世阿弥らが政治犯として流され、流人の島として陰鬱なイメージがひときわ強いようですが、風光明媚で文化的な場所としても描かれています。長塚節(ながつかたかし)(1879-1915)は「佐渡が島」の中で生まれて初めて能を鑑賞します。村の人々の観能の様子や、舞っていたのが村の石屋や宿屋の主人だったことに対する驚きが描かれています。ブルーノ・タウトは

実に驚くべき調和を示している農家の屋敷があった。黒い用材と見事な白壁、平たく傾斜した屋根には押石が載せてある、また藁屋根の家もあった。時には一つの屋敷にこれ等の建築様式が一緒に集められているところもあり、それは私が日本で見た家屋のうちで最も雅致あるものの一つであった。
(日本美の再発見)

と書いています。井上靖(いのうえやすし)(1907-1991)は佐渡の文弥人形芝居の名人を訪ねたり、佐渡おけさを全国に広めた名人村田文三(むらたぶんぞう)の美声に接しました。

村田文三さんは相川の生まれで小さい時から鉱山に入り、精錬をやってゐたが、四十五六位の時レコードに吹き込んで、一躍有名になつてしまつた。
「鉱山では、佐渡おけさにしても、ベルトに合はせて唄ふので少し調子が早いんです」

さう言つて、おけさ節を早く唄つて聞かせてくれた。舞台では自信満々たる唄ひ方だが、座敷では少し恥しさうに、この老歌手は伏目になつて唄ふ

(大佐渡小佐渡)

現代

 最後に林芙美子(はやしふみこ)(1903-1951)。私小説「放浪記」で直江津駅(上越市)に降りるのですが、泊まった駅前の宿「いかや」は今も同じ場所で ホテル・センチュリーイカヤ として営業しています。主人公はだんごを食べて生きる気力をとりもどします。

海辺の人がなんて厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて…。駅の歪んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。
(放浪記)

継続だんごは、閉鎖されそうになった直江津米穀取引所が、住民の反対運動で継続になったことを祝って作られた白あんの団子。今も代表的な直江津みやげとして健在です。

他にも亀田鵬斎(かめだほうさい)、菅江真澄(すがえますみ)や吉田松陰(よしだしょういん)、柳田国男(やなぎたくにお)、種田山頭火(たねださんとうか)、北原白秋(きたはらはくしゅう)など多くの人が新潟を訪れています。白秋は新潟市で愛されている唱歌「砂山」を作詞しています。幕末に活躍した川路聖謨(かわじとしあきら)は佐渡奉行として赴任し「島根のすさみ」を残しました。司馬遼太郎(1923-1996)は新潟、佐渡を度々訪れ「街道をゆく」に記しています。彼は長岡藩最期の家老河井継之助、佐渡生まれの医師、語学者司馬陵海(しばりょうかい)を主人公にした作品「峠」「胡蝶の夢」を書いています。新潟の風土や越後の人を主人公にした文学作品、新潟出身の作家による作品などはまた改めてご紹介します。

協力
  • 新潟県立図書館
文学の中の新潟 出展と参考文献
  • 山古志村史 民俗新潟県文学全集 第Ⅰ期 第Ⅱ期 資料編 郷土出版社
  • 現代紀行文学全集中部日本編 昭和41年 修道社
  • 明治日本旅行案内ルート編Ⅰ アーネスト・サトウ編著 1996年 平凡社
  • http://www3.ocn.ne.jp/~ishino/map/

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