
file-9 文学の中の新潟~紀行編

幕末に初来日して後に駐日特命全権公使となったイギリスの外交官アーネスト・サトウ(1843-1929)の「明治日本旅行案内」は、各地の交通や名所を詳しく記しています。清水峠を越えて新潟に入り「長岡から新潟まで汽船、あるいは川下りができるが汽船は必ずしもあてにできない」「P・ミオラ経営の西洋風料理店は…外国人に推奨する。朝食、軽食、夕食つきで一泊三ドル」などの記述があります。鉄道に主役の座を譲るまで新潟県内は川船が利用され、特に明治以降は汽船会社が幾つも設立されて隆盛していました。P・ミオラの料理店とは、新潟市のホテルイタリア軒。日本国内では最古参の洋食店で、けがをしたため所属していたサーカス一座と別れたP・ミオラ氏が開きました。
外国人では昭和に入ってドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)が新潟市や佐渡を訪れています。「日本美の再発見」では、佐渡の農村を賞賛していますが、新潟市に対しては、おそらくは市庁舎を消失した大火の直後だったこともあり、印象が悪かったようです。
1899年に療養のため新潟を訪れた尾崎紅葉(1863-1903)もあまり良い印象はなかったようで、新潟の水質の悪さに辟易した記述が「煙霞療養(えんかりょうよう)」にあります。当時の新潟市は縦横に堀割が巡らされた港町で知られていましたが、きれいな水は少なく飲料水は舟で桶売りされていました。
歌人の与謝野晶子(1878-1942)は開湯して間もない村上市の瀬波温泉を訪れ、
いちじろく瀬波に春の陽炎の立つと 噴き湯をとりなしてまし
など45首を残しています。