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file-5 上杉謙信と戦国越後 義に生きた希代の戦国武将


戦国の雄として

リージョンプラザ上越前の謙信像

リージョンプラザ上越前の謙信像

 景虎が武田晴信(のちの信玄)と初めて川中島で向かい合ったのは1553年。景虎24歳、晴信は33歳の時のことです。両名は続く11年の間に5回の戦いを経ることになります。晴信は既に信濃の南部、中部を手に入れており、北信濃を落とせば信越国境に迫ることになります。晴信に追われた北信濃の村上義清に支援を求められての出陣でしたが、景虎にしてもこれ以上晴信の北進を許すわけにはいかなかったのです。春日山城のある府中は信越国境とは目と鼻の先でした。

 時を同じくして、守護上杉家の一族である関東管領上杉憲政が景虎を頼って府中を訪れます。

 関東管領とは室町幕府の要職で、関東地方一体を治めていましたが既に有名無実となっており、相模(神奈川県)の北条氏康に追われて越後に逃れてきました。景虎は上杉憲政に館を建てて迎え、およそ10年後に関東に向けて出陣します。景虎が上杉氏を継いで長尾から上杉となったのは、北条氏康の小田原城を脅かした後のことでした。この頃から亡くなるまでの間、上杉謙信(将軍から一字もらい輝虎など、何度か名前を替えているが紛らわしいので謙信とする)は毎年のように関東、越中に出陣しつつ信玄とも対決。一年のほとんどを戦場で過ごし、冬場を群馬県の厩橋城(前橋市)などで過ごすこともありました。

 一方、国内では新潟県北部の村上市を本拠地にしていた本庄繁長が武田信玄と結んで反乱を起します。これを鎮圧した謙信は繁長の詫びを受け入れて再び家臣として重用します。関東の厩橋城では、城を任せていた北条(きたじょう)高広が離反して北条方についてしまいます。本庄繁長の一件は武田信玄の謀略の一環で、上杉の家臣を味方に引き入れるほか一向宗門徒の反乱も仕掛けていました。北条(きたじょう)高広も北条氏の謀略で、こうしたことは戦国武将の常套手段でしたが謙信から仕掛けた形跡はありません。織田信長の求めで同盟を結びますが、信玄が亡くなり長篠の戦いで信長が勝利すると同盟は消滅します。破竹の勢いで勢力を拡大する織田信長に対し、今度は中国の毛利輝元と本願寺が謙信に同盟を呼びかけ、長く対立していた一向宗と和解。1577年には加賀(石川県)で柴田勝家を大将とする織田軍を破りました。その年春日山に戻り、年が明けた3月、城内で倒れそのまま亡くなります。享年49歳。要請を受けた関東への出陣の支度は既に整っており、毛利氏と本願寺との信長包囲網が動き出す直前のことでした。

 



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