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特集 -File08-

file-8 佐渡の金銀山 一国天領に開いた文化


一国天領の光と影

千石船「幸榮丸」

往時の技法で復元された江戸時代の千石船「幸榮丸」(佐渡国民俗博物館)。幸榮丸が建造された当時の小木(宿根木)は海運と千石船産業の基地として繁栄を誇っていた。


千石船「幸榮丸」

当時の図面を元に再現された佐渡奉行所(佐渡市相川広間町)

 金山の町相川は、日本全国から集まった最先端の技術を持つ職人や労働者、彼らの消費を支える商人を集め、5万とも10万ともいわれる人口過密都市になりました。江戸に金を運ぶ街道沿いも整備され、積み出し港の小木には北前船も入港。金銀だけでなく、金山都市を支えるための物資を運ぶ物流でも栄えました。同時に最新の文化や学問も入り、江戸時代の一時期、相川だけで10軒の医師がいたといわれています。

 しかし一方で、佐渡の人々は金山経営に翻弄された過酷な歴史を歩んできたとも言えます。江戸時代を通じて102名の佐渡奉行を迎えていますが、彼らはできるだけ多くの金銀と運上金を江戸に送ることが仕事です。そのためにできるだけ経費を削減しなくてはなりませんでした。労働者の食糧はできるだけ佐渡島内でまかない、しかも安く仕入れたい。新田開発をさせて食糧増産を目指す一方、高い年貢をかけてしかも島外への積み出しを禁じて価格を安く抑えようとしました。さらに佐渡島内のみで流通する、銀の含有を減らした貨幣を鋳造することでも経費節減をしています。

 また、人口の増減も島民にとっては過酷でした。江戸時代初期に一気に産出量を伸ばした金山は、その後生産量が落ち込みます。すると職人や人足が職を失い、島を離れてしまいます。すると金山に必要な物資や食糧を調達していた島の人々、町人らの経済は一気に逼迫してしまうのです。金山に投資して増産を目指すかどうかは、幕府の経済政策と直結していました。島の人々は常に、金山と幕府の政策に翻弄されていました。佐渡の人々が学問や文化を大切にし、村の古文書を大事に守ってきたのは、金山があるために最新の学問が流入しただけでなく、自分たちの暮らしを守るのは自分たちしかいないという自立心の現れだったのです。


協力
  • 佐渡市教育委員会 世界遺産・文化振興課 世界遺産調査係


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